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私がしゃべらない理由

無口な私がしゃべらない理由をまとめてみる記事です。

はじめに

もう7年以上も前になるでしょうか、飲み会の席で研究室の教授にこんなことを言われました。

なんでお前はしゃべらないんだ? そんなんじゃダメだ!

その時どう答えたのかはもう忘れてしまいましたけど、それからずっと「なぜ私はしゃべらないのか?」を自問し続けてきました。

7年間以上考え続けてもはっきりとした理由はわかりませんが、最近下記の記事を読んだこともあり、今現在の考えをまとめておこうと思います。

※念のため書いておきますが、何らかの病気でしゃべれないような方を中傷する意図はありません。そのような方はこの記事を読まないでください。

私がしゃべらない理由

私について

私は無口な人間です。少なくとも私の知り合いの中では、一番しゃべらない人間です。

飲み会でさえ一言もしゃべらないことのほうが多いですし、雑談なんて十年以上してないような気がします。

しかし、しゃべれないわけではありません(たぶん)。

自分や他の人の研究内容についてはしゃべりますし、プレゼンテーションについてはそれなりに得意だと思っています(しっかりと準備して練習すれば、ですけれど)。

しゃべらない理由

なぜ私はしゃべらないのか、長い間考え続けた現時点での結論は、

しゃべる習慣がないから」です。

なんだか「卵が先か鶏が先か」的な、答えになってないような答えですけれど、これが一番正確なように思います。

「なぜあなたは運動をしないのですか?」

多くの人に分かりやすいたとえとして「運動」について考えてみます。

「会話」と「運動」は似通った点があります。どちらも定期的に行わなければリスクがあり、寿命が縮まります。

※「孤独である」ことと「会話をしない」ことはイコールではありませんが、まあ「コミュニケーションを取らない」という点で似たようなものでしょう。

さて、あなたが日常的に運動をしない人間だと仮定して、「なぜ運動をしないのですか? そんなことではダメですよ?」と聞かれたら、なんと答えるでしょうか。

「運動が嫌いだから」でしょうか? 運動といっても、散歩、ストレッチやヨガなども含みます。質問を変えましょう。「なぜ散歩をしないのですか? そんなことではダメですよ?」

結局、「運動をする習慣がないから」という結論に落ち着くのではないでしょうか。

※「運動」でピンと来なければ、「英語」や「禁煙」、「Git」などで考えてみるといいかもしれません。

私がしゃべらなくなった理由

それでもやっぱり「なぜしゃべらないのか?」という問いに対して「しゃべる習慣がないから」では答えになっていないかもしれません。

真に聞かれているのは「なぜしゃべらないのか?」ではなく「なぜしゃべらなくなったのか?」なのでしょうか。

下記記事で書かれているものも「なぜしゃべらないのか?」ではなく「なぜしゃべらなくなったのか?」という問いに対する答えになっているようです。

これについては理由がいろいろあって一言では答えられません。まだ考えがまとまっていないのですが、思いつくものを列挙してみます。

しゃべるのが嫌いだから

前述の「運動が嫌いだから」と同じように、「しゃべるのが嫌いだから」という理由は確かにあります。

しゃべるだけでダメージを食らいます。どんなに親しい間柄であっても、です。

会話をした時と、会話が終って一人になった時と、寝る前と、その後会話を思い出した時と、会話を思い出した時と、会話を思い出した時と、会話を思い出した時と、会話を思い出した時と、会話を思い出した時と、会話を思い出した時と、会話を思い出した時と、会話を思い出した時と、会話を思い出した時に、会話を思い出した時と、会話を思い出した時と、会話を思い出した時と、会話を思い出した時と、会話を思い出した時と、会話を思い出した時と、会話を思い出した時と、会話を思い出した時と、会話を思い出した時と、会話を思い出した時に、精神が消耗します。

ゲームによくある、毒や呪いの状態異常のようですね。

飲み会とかキャバクラとか、「お金を払ってでも会話をしたい」という人がいるみたいですけれど、私の場合は「しゃべらなくていいならその倍は払おう」という感じです。

議論を交わし、考えや気持ちを伝えあうことこそが人生であり幸せであるという人のことは理解できます。同意はできません。

価値観の違いというよりも、脳の構造の違いのように思います。

記憶力が悪く、完璧主義だから

私は他の人よりも記憶力が悪いようです。特に記憶の出し入れの速度が遅いです。

※多くのサンプルを確認したわけではないですけれど、ネガティブな人には記憶力が悪い人が多いような気がします。

ごく基本的な情報であっても、会話中すぐには出てこないことがあります。一応記憶していないわけではなく、会話が終って数時間後から半日後くらいに思い出します。

まあ思い出せないことは「思い出せない」と伝えるか、適当に答えて話を進めるしかないわけですが、さらに完璧主義なので正しい答えを引き出そうとしてしまい、会話ができなくなってしまうのです。

たとえば「へえ、部活に入ってるんですか。人数はどれくらいなんです?」という問いに対して、「えっと…(学部1年生が○○人で、学部2年生が、いち、にい、さん…)」というような感じです。

まあこの場合は厳密に正確な人数を答える必要はないわけですから、記憶力うんぬんというより、会話の流れや空気を読めていないだけかもしれませんけれど。

つまり単に愚かなだけですね。

他人に興味がないから

会話関連の自己啓発本では必ずと言っていいほど「他人に興味を持ちましょう」という言葉が出てきます。

それについては、「それができないから会話ができないのに、何を言っているんだ…」という感想しか出てきません。人間の興味が気持ち次第で変わるなんてありえないと思うのですが、どうなんでしょう。

例えば、生まれてこのかた運動に興味がない人に「運動に興味を持ちましょう」と言って、興味を持つと本気で思っているのでしょうか?

よしんば一時的に興味を持つことはあっても、継続的に興味を持つことは難しいでしょう。 会話も運動も興味も、三日坊主で終わってしまいます。

ただし、私はあまり「興味(Interest? Curiosity?)」についてはよく知らないので、確かなことは言えません。そのうち心理学なども勉強します。

しゃべることで考えが変わってしまうから

例えば「何がしたいのか?」と問われたとして「○○がしたい」と答えた瞬間に、「○○がしたい」ではなく「他人に○○がしたい人間だと思われたい」に変わってしまうからです。

たとえば「私は死にたいのだ」と伝えれば、本当に死にたいのではなく「死にたいと表明する私を気遣ってほしい」に変化してしまいます。

ただでさえ自分の考えはあやふやなものなのに、そんな調子で変わり続けたら収拾がつかなくなってしまいます。 自分が影響を受けやすい人間だとわかっているというか、確固とした信念がないというか。

巷には「何か目標を達成したければ、多くの人に伝えて自分を追い込むべき」というようなアドバイスがありますが、人に伝えた時点で目標が変化してしまうのです。

観測することで状態が変わってしまう量子のようなものでしょうか?

世の中の成功する人というのはそのような変化や化学反応を楽しめる人だと思うのですが、私には無理です。

その他

下記記事の理由とコメントに書かれている理由は大体あてはまります。

しゃべらないことは悪である。そんなことはわかってる

この記事はしゃべらない私自身を擁護するものでも、しゃべる人を非難するものでもありません(できるだけ客観的に書こうとしてみましたが、主観が混じって擁護の気持ちがにじみ出てしまっているかもしれません)。

ただ再び「なぜお前はしゃべらないんだ?」と聞かれたときに答えられるように考えをまとめるためのものです。 「なぜお前はしゃべらないんだ?」という問いに対して「なら、なぜ貴方は運動しないのですか? 生活習慣病による国民医療費の負担がどれくらいか知らないんですか?」という嫌味ではなく、ちゃんとした理由を答えるためのものです。

※ちなみに研究室の教授は運動もできる完璧超人です。ぐぬぬ。

多くの無口な人は、少なくとも私は、しゃべらないことが良いことだとは思っていません。しゃべらないことにコンプレックスを持っています。 運動をしない人が自分のたるんだ肉体を疎ましく思ったり、引き締まった体の人や運動を楽しんでいる人を羨ましく思ったりするのと同じようなものです。

「なぜしゃべらないんだ? そんなんじゃダメだ!」という意見には完全に同意します。

自身の寿命を縮めるだけでなく、情報伝達を阻害することでコミュニティーに害をもたらすでしょう。 疫病をもたらす可能性がある不潔な人間に嫌悪感を抱くのと同じように、無口な人間に嫌悪感を抱くのは当然です。

「しゃべらなければ存在しないのと同じだ」という意見があります。これも全くその通りだと思います。

※余談ですけれど「私はダメなのだ」「私は存在しないのと同じなのだ」と、何年も何年も自分自身に言い続けていれば、多少性格が歪んでも仕方がないですよね。

下記の記事には「しゃべらない人を非難する意図はない」というコメントがありましたが、一行目に「理由」ではなく「原因」と書いてあるところにしゃべらない人間への蔑みを感じます(これは単なる言いがかりですけど)。

「なぜしゃべらないんだ? そんなんじゃこの先苦労するぞ!」という意見には、少し反論したくなります。「これまでは苦労してこなかったのだろう」「しゃべらないほうが楽だからしゃべらないのだろう」「私はリスクを恐れずしゃべっているのだぞ」という気持ちが透けて見えるからです(これもただの言いがかりですね)。

 

でも、しゃべらないとダメだと思っていてもしゃべり続けられないんですよ。

運動しなきゃダメだと思っていても運動が続かないのと同じように。

おわりに

結局ただの言い訳になってしまいました。

「お前はしゃべらない理由やしゃべらなくなった理由を考えていたのではなく、しゃべらなくてもいい理由を探していただけだ」と言われれば、確かにその通りです。