『幸せになる勇気』という本を読んで考えたことをメモしておきます
はじめに
先日『嫌われる勇気』を読んで内容が良かったので、続編の『幸せになる勇気』も読んでみました。
- 作者: 岸見一郎,古賀史健
- 出版社/メーカー: ダイヤモンド社
- 発売日: 2016/02/26
- メディア: Kindle版
- この商品を含むブログ (2件) を見る
そもそも『嫌われる勇気』もあまり理解できていない状態だったので、『幸せになる勇気』も腑に落ちない部分が多かったのですが、特に「幸福」について考えたことをメモしておきます。
幸福について
『幸せになる勇気』を読んで、下記の記述が気になってしまいました。
哲人 われわれはみな、幸せになることを願っている。より幸福な生を求めて生きている。そこは同意していただけますね。
青年 もちろん。
なぜ、「われわれはみな、幸せになることを願っている」と言えるのでしょうか? 不幸になることは願っている人や、より不幸な死を求めて生きている人はいないのでしょうか?
もし、みなが求めるものを「幸せ」と定義しているならば、「みなが幸せを求めている」も正しいでしょう。
しかし『幸せになる勇気』で紹介されているアドラー心理学では「幸福とは、貢献感である」とされています。つまり「誰かの役に立っていると感じ、自らの価値を実感すること」が幸福であると考えています。
そうすると「われわれはみな、幸せになることを願っている」とは、「われわれはみな、誰かの役に立っていると感じ、自らの価値を実感することを願っている」ということになります。
これは誰もが「もちろんそうだ」と同意できる考え方なのでしょうか?
アドラー心理学が意味する「幸福」ではなく、一般的な意味の「幸福」ではどうでしょう。
デジタル大辞泉によると、「幸福」の意味は下記の通りです。
満ち足りていること。不平や不満がなく、たのしいこと。また、そのさま。しあわせ。
われわれはみな、満ち足りて、不平や不満がなく、たのしい状態を求めているのでしょうか?
私はそうは思いません。
これまでストレスを原動力に生きてきた私は、その考えには同意できません。
おわりに
幸せになることを願っていない人がいるかどうかは、 『幸せになる勇気』の重要な話ではないので、これを指摘することに特に意味はないんですけどね。