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kengo700のダイアリー

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ラノベ、マンガ、アニメが低俗だと言われる理由がやっと分かった

「ラノベやマンガやアニメが低俗だ」という意見は、「分析と解釈・批判の技術を必要とせずに楽しめる作品を理解できない人たちによる拒否反応ではないか」という考えをまとめる記事です。

はじめに

子供のころ、ラノベやマンガやアニメに対して「そんなもの子供の趣味だ。いい大人が見るもんじゃない!」というような話をよく聞きました。

私はそのような意見がずっと理解できませんでした。まずもって趣味に優劣をつけるなんてナンセンスだ、と思っていました。

そして大人になった今でも、ラノベやマンガやアニメは変わらず面白く感じます。大人になればつまらなくなるわけでもないようです。
 

しかし最近、『外国語で発想するための日本語レッスン』という本を読んで、ラノベ、マンガ、アニメが低俗だと言われる理由がやっと分かった気がしました。
 

そもそも、そのような人が言う「低俗」とは「分析と解釈・批判の技術を必要とせずに楽しめる」ということを意味しているのではないかということに気付きました。

そして、それまで「楽しむために技術を必要とする文学や絵画」に慣れ親しんでいたところに、「技術を必要とせずに楽しめるラノベ、マンガ、アニメ」が台頭してきたために、それらが理解できずに拒否反応を示してしまったのではないか、と考えました。

分析と解釈・批判の技術

『外国語で発想するための日本語レッスン』

話を進める前に、『外国語で発想するための日本語レッスン』などの本で解説されている「テクストの分析と解釈・批判」(クリティカル・リーディング)について説明しておきます。

外国語で発想するための日本語レッスン

外国語で発想するための日本語レッスン

この本の主題を簡単にまとめると、日本と違って欧米では幼稚園から高校まで「テクストの分析と解釈・批判」の技術が教えられているため、日本人が外国人と対話するためには英語より先に「テクストの分析と解釈・批判」の技術を学ぶ必要がある、といった内容です。

そして「絵の分析」と「物語の分析」を例に、「テクストの分析と解釈・批判」の方法が解説されています。

『落穂拾い』の分析

「テクストの分析と解釈・批判」とはどのようなものかを理解するには具体例を示すことが一番だと思うので、『外国語で発想するための日本語レッスン』に書かれている例を紹介します。

この本の中に、著者が指導している中学三年生が絵画『落穂拾い』の分析を行った結果が書かれています。『落穂拾い』がどんな絵画かは下記ページなどをご覧ください。

中学三年生が期末試験として『落穂拾い』を分析した結果は下記のようなものだったらしいです。

◇この絵には三種類の階層に属する人々が描かれている
 後方には馬に乗った人と麦の収穫をしている人々がいる。前方に三人だけ女性がいる。馬上の人物は収穫を監視・指図する監督官のような人物、後方の人々は監督官に指図されて収穫をする人々、手前の女性三人はそれらに属さない人々。
 
◇手前の三人の女性は社会的地位が低く、差別されている
 後方には光が当たり、前方には光が当たっていない。前方の人々は影に覆われ、下を向いたまま落ちている麦を拾っている。後方の人々は、監督官に指図されながらも、光の中で収穫の喜びを感じている。前方の人々は、社会の影の中、社会の底辺に生きる人々で、後方の人々の輪の中に混ぜてもらえない人々、つまり差別されている人々。手前の人々と後方の人々との間にはかなりの距離があいていることから、厳しい差別がある。
 
◇三人の女性は人生に疲弊し、諦念と悲哀を感じている
 女性たちが影に覆われている。女性たちは顔をうつむけ、手前に描かれているにもかかわらず表情が描かれていない
 
◇三人の女性たちは、収穫時に取りこぼされた麦を拾っている
 女性たちの手にはわずかながらの穂が握られている。彼女たちの手に握られている穂がわずかであり、地面に落ちている穂がほとんどないにもかかわらず、彼女たちがさらに腰を屈め、作業をし続けている様子から、彼女たちは収穫時に取りこぼされた麦を拾って生活の足しにしていると考えられる。

この中学三年生の分析は、美術評論家の解説に匹敵する内容となっています。ただし重要なことはこの解釈が正解かどうかではなく、専門知識がなくても「テクストの分析と解釈・批判」の技術さえあれば、これだけ深く絵画の意味を探ることが可能であるということです。

私自身、絵画をこのように分析するという発想がなかったこともあり、この本を読んだ時は衝撃を受けました。そして先日のブログ記事に書いた通り、日本人は国語の授業で作者の気持なんか考えてないで「テクストの分析と解釈・批判」を学ぶべきだ、とも思います。
 

しかし一方で、こうも考えました。

ラノベやマンガやアニメをこんな風に分析したとして、それは楽しいのだろうか?
 

ラノベ、マンガ、アニメは低俗?

「分析と解釈・批判」を必要としない作品

「分析と解釈・批判」によって作品を深く掘り下げることは素晴らしいですし、多くの人がこの技術を学ぶべきでしょう。 しかし「分析と解釈・批判」は時間とエネルギーを消費するものでもあります。

趣味ぐらい、もっと気軽に楽しみたいと、私は思います。

ラノベは平易な言葉で書かれていることに加えて、キャラクターの会話で物語が進んでいく点など、「分析と解釈・批判」の技術がなくても楽しめるように最適化されていると感じます。 マンガであれば、場面が絵で表現されているため、簡単に状況を把握することができます。 アニメならば、動作、音声、効果音、音楽などが加わり、さらに分かりやすいのではないでしょうか。

この分かりやすさを「低俗である」と見なすこともできますけれど、「気軽に楽しめる」と解釈することも可能ではないでしょうか。

「脚本の人そこまで考えてないと思うよ」

私は『外国語で発送するための日本語レッスン』を読みながら、「テクストの分析と解釈・批判」の技術に感心するとともに、一方で『月刊少女野崎くん』の千代ちゃんのセリフが頭にちらついていました。

脚本の人そこまで考えてないと思うよ

そもそも「テクストの分析と解釈・批判」には、作者が作品の全てを綿密に組み立てているという前提があるようです。

もちろん大半の作品はそうだと思いますけれど、そうでないものもあるはずです。

例えば「葵井巫女子(あおいいみここ)」という名前のキャラクターが物語に出てきたとして、なぜ作者がそんな名前を付けたのか分析することに大した意味があるとは思えません。

ここら辺が「文学」と「ラノベ」の差異なのでしょうか。

欧米式の国語教育が行われれば、ラノベやマンガやアニメの文化は衰退する?

理想としては、「分析と解釈・批判」の技術を身につけた状態で、作品に応じて分析しながら楽しむか、何も考えずに楽しむかを切り替えればいいのかもしれません。

しかし、そう簡単に切り替えることができるでしょうか。

「分析と解釈・批判」の技術を国語の授業で学ばなかった日本人が、前述の『落穂拾い』の例のように作品を分析することが難しいのと同様に、 「分析と解釈・批判」の技術を幼稚園から高校まで学び続けた人間が、作品を分析せずに楽しむこともまた難しいと思います。

もし日本の教育で「分析と解釈・批判」の技術が教えられていた場合、ラノベやマンガやアニメの文化はこれほど発展しなかったのではないか、と考えることもできます。

そうであれば、国語の授業で「テクストの分析と解釈・批判」を学ぶべきだ、と一概に言えなくなってきます。

単純に私がラノベやマンガやアニメを好きだからでもありますし、ラノベやマンガやアニメに救われている人もたくさんいるはずです。 もし『十二国記』や『ドラゴンボール』や『コードギアス』が存在しなければ、私はもっと早く自殺していたでしょう。

理解できないものを非難しない勇気

最後に、この記事の冒頭にも書きましたが、もう一度書いておきます。 趣味に優劣をつけるなんてナンセンスです。

文学を読む人がラノベを低俗だと言うのは、蹴鞠の選手がサッカーを低俗だと言っているようなものです。

理解できないからと言って、安易に非難してはいけません。 理解できないという状態を受け入れるべきです。

実況動画であったり、YouTuberであったり、e-Sportsであったり、VRであったり、今後も理解しがたい新しいものは続々と生まれてくるでしょう。

よく分からないなら、近寄らない。そして余計な口を出さない。

ただそれだけのことです。

おわりに

ちなみに、西尾維新さんがラノベ『クビシメロマンチスト』のメインヒロインである葵井巫女子にそんな名前を付けた理由は、『ザレゴトディクショナル 戯言シリーズ用語辞典』に書かれています。 気になる方は読んでみてください。

クビシメロマンチスト 人間失格・零崎人識 戯言 (講談社文庫)

クビシメロマンチスト 人間失格・零崎人識 戯言 (講談社文庫)

ザレゴトディクショナル 戯言シリーズ用語辞典 (講談社ノベルス)

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